toohiiのお一人様がいい

おそらくソリタリーのぼくの雑記

人づきあいに悩むなら「友だち幻想」を読もうよ。

 

 

ソリタリーに関するサイトを探り、

そこに紹介されている本をいくつか読みました。

 

その中でこの「友だち幻想」が最も大きくうなずけた。

 

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:菅野 仁
  • 発売日: 2008/03/06
  • メディア: 新書
 

 

そこで今回はこの本について自分なりに感じたことを

書いていこうと思います。

 

ぼくが購入した物の帯には

「中高生にいま一番読んでほしい本」とありますが、

全国民に読んでほしいわ、と思っています。

 

この本は「人とのつながり」を考え直すのが目的で書かれています。

 

(以下、本書の内容をぼくが要約して書いています。青字はぼくの意見です

 

目次 

 

「他者」という考え方

かつての日本には「ムラ社会」といわれるような地域共同体が存在していました。

「ご近所の人の顔と名前はぜんぶわかる」といった集落がそれです。

みんなが同じような職業、生活形態前提とした社会です。

同質性の社会です。

 

ところが今やそうではなくなってきている。

さまざまに多様で異質な生活形態や価値観をもった人々が隣合って暮らしている。

同質性が前提ではなくなってきているのです。

 

ですからそれを自覚し、

新しい人とのつき合い方をしていかなければいけないと著者は訴えているのです。

 

そのことを若い人はもちろん、先生や親御さんにも理解してほしいといっています。

 

本当にそうです。

学生の頃に「お前が間違っている」と言い放った教師にも聞かせたい。

あの頃は工業製品かよと思わせるほどに均一化を要求されました。

 

それでも今は随分と違ってきているなと感じました。

この前テレビで外見の性と内面の性が違う(トランスジェンダー?)の学生が出ていました。そのことを先生と相談し、先生も理解しようと努めていました。

医師の診断書が出ている威力のせいでしょうか。

性的マイノリティへの理解は進んでいるのだと感じました。

 

そうではないマイノリティの理解も進んで欲しいものです。

 

著者は「他者」という言葉を持ち込みます。

「他人」ではありません。

「他者」とは自分以外のすべての人ということです。

 

どんなに親しい間柄であろうと、

自分とは違う考え方や感じ方をする他の人間である

と考えようといっています。

 

親友なら、親子なら「自分の気持ちをぜんぶわかってくれるはずだ」

「私たち、心は一つだよね」と考えてしまうことの方が幻想である。

その考え方が危険である。それをわかってほしいといっています。

 

それを理解していれば、親友や親に必要以上の要求をすることもなくなります。

必要以上に要求するのでつらくなるのだと思います。

何故なら相手は「他者」ですから、自分の要求を100%理解することは無理です。

 

親や教師が、それを理解することなく、

同質の枠の中へと入れよう入れようしてくる場合もあるでしょう。

自分がそれを理解していれば距離を置いて自分で考えることができます。

 

自分がそれを理解していないと、「親が言うのだから」「先生が言うのだから」と

自分で考えることなしに、そのまま鵜呑みにしてしまいます。

 

「他者」であるとすることが、

優しい子ほどとても冷たいことのように思えてしまって、

受け入れられないかもしれません。

でもこの行為は、他人を認めることだと考えた方がいいと思います。

 

 

「異質性  自分とは違う」と受け入れることが、

人間関係を考えるときの基本的な大前提となるのです。

 

このような考え方ができれば、

自分たちとは違う考え方・性質の人たちを

「他者たち」のようにとらえることができるのではないでしょうか。

そうすれば、

ぼくのようなソリタリーというマイノリティのことも

理解できなくとも、許すことはできるのではないかと思いました。

 

 

同調圧力

 同調圧力 本当は幸せになるための「友だち」や「親しさ」のはずなのに、
その存在が逆に自分を苦しくしたり、相手も息苦しくなっているような
妙な関係のことを著者はそう呼んでいるそうです。

以下2つがその代表として挙げられています。

・悪口を言われるのではないかという不安から、帰りたくても帰れない。
(その場にいない人の悪口をいうのは、それによっていない人を排除し、
「あなたと私の親しさ」を確認し合う行為なのだそうです。
 ちなみにぼくはその行為が大嫌いなので、ある人がその場にいない人の悪口を
言い出したら,その言い出した人から距離を置くようにしています。
 そういう人はまたどこかへ行ってはその場にいない人の悪口を言っているからです。
ぼくの知り合いは実際にそうです。そうすることで、俺とお前は仲間だよなと確認し合っているわけです。さっきはその人の悪口を言っておいてです。なんて不気味な行為でしょうか)

・「メール即レス」
 メールを頻繁にやりとりし、すぐに返事をしないといけないというやつです。
 どれくらい早く「即レス」してくれるかで友情をはかっている。
 たしか、事件も起きてしまったような記憶があります。
(愚かな行為に見えますが、これを咎めるのもどうかと思います。
 好きか嫌いかは別にして、参加せざるを得ないゲームのようなものではないでしょうか。不参加を決めたきっかけでいじめになることも考えられます。学生生活を乗り切る手段なのです。中学高校とはそれだけ窮屈な場所なのです。卒業すればその奇妙な関係も終わります)

この「同町圧力」を生む原因がムラ的な同質性を関係性にあるといいます。
かつてのムラ的な伝統的共同性の根拠は、生命維持の相互性でした。
お互いに支え合って共同的なあり方をしていなければ生活が成り立たなかった。
つまり、「出る杭は打たれる」「長い物には巻かれろ」といった同調圧力が強い反面、
お互いを支え合うという相互扶助の側面も強かった。

ところが、現代における共同性の根拠にあるのは「不安」の相互性だといいます。
多くの情報や多様な社会的価値観の前で、お互いに自分自身の思考、価値観を立てることができず、不安が増大している。その結果、とにかく「群れる」ことでそれに対処しようとし、新たな同調圧力を生み出しているのではと著者は考えています。

同調圧力のような形で、お互いが消耗し合うことがないような関係性をつくることを
考えていきませんかと言っています。

「みんな同じ」ということをとりわけ大切にする「同質性の重視」。
それを基盤とする「同質的共同体」。伝統的なムラ社会では従来望ましいと考えられてきた人間関係のあり方です。

それがある一方で、人間の共同性は抽象的な形で、間接的、媒介的な性質を帯びてますます広がっている。
貨幣経済」がそれです。
我々の身の回りの物はどこの誰ともわからない人がつくったものですよね。それであふれています。
直接目に見える人たちへの直接的依存関係から、貨幣と物を媒介にして目に見えない多くの人たちへの間接的依存関係へと変質している。それがさらに進んでいる。

こうした二重の共同性が成り立っているにもかかわらず、対応できていないのではないかということです。

著者はここで、例の「一年生になったら」という歌をあげています。
「一年生になったら友達100人できるかな」というあれです。
(ここでも批判されてしますね。この歌。そんなにいうこともないと思いますが。
あくまでも夢とうかファンタジーというか。それとも、楽しく歌ってていたぼくはアホなのでしょうか)

この歌に象徴されるように、学校というのはとにかく「みんな仲良く」で、
「いつも心が触れ合って、みんなで一つだ」という考え方。
著者はこれこそ幻想だと言い切っています。
「子どもたちが誰とでも友達になれて、誰とでも仲良くなれる」ということを前提としたクラス運営・学校経営は考え直した方がいい。

「一人でいないでみんなの輪に入りなさい」という教師の言葉にむしろ圧力を感じる子供や、みんなと一緒になれないことを気にするあまり「自分はダメな子だ」と思ってしまう子供が少なくないそうですね。

これまでの学校文は「みんな同じ」ということをとりわけ大切にする「同質性の重視」。それを基盤とする「同質的共同体」という側面にしか目が向けられてこなかった。それをやり過ぎてしまった。

それを改めるべきですよと言っているのです。

ああ、これをいつも一人でいるぼくに「お前が間違っている」といった担任教師に聞かせたいですね。おもえば、怒鳴りつけることでしか教育できない奴でした。顧問の女子バレーボール部はストレス発散の場とも言っていました。部員たちは怒鳴られて、毎日泣いて、それで試合に全く勝てていない。これで勝てているのならまだいいのですが。
なんて効率の悪い指導でしょう。

 

「ルール」とは 

 「クラスはみんな仲良く」という考え方は、昔は現実的根拠があった。
それは小学校は大体ムラにひとつだったから。
そこは代々家族ぐるみで顔見知りの子供たちが集まることになる。
地域ぐるみでの濃厚な人間関係ができている。
今に比べれば、ムラの共同生活を核にした地域の支えがとても強かった。

それがとりわけ1980年以降はそういう支えがなくなってきて、
地域自体が単なる偶然にその場に住んでいる人たちの集合体になっている。
にもかかわらず、先生は「クラスは運命共同体だ」などという発想で
運営しようとしている。
「同質性の重視」という無理を通そうとしているのです。

そうではなく、同質性はないけれどもそういう相手とでも共存できることを
教育すべきなのです。

同質性から共存性へです。

それに必要なのが「人は人、自分は自分」という突き放した考え方です。
本来異質であるのに、「クラスは一つ。みんないっしょだ」という幻想に陥ってしまっているからややこしくなってしまうのです。

「あまり濃厚な関係を学校空間の中で求めずぎない」ことが、
教師や大人の心得として重要であるといっています。

「濃厚な関係からあえて距離をおく」
     ↑
学生時代にまさにぼくはこれをやっているわけです。
「違うな」と思うのであえて他の生徒たちと距離をおいていた。
近づけばややこしい関係が生まれてしまうことがわかっている。

それなのに、わざわざ関係を濃厚なものにしようとする教師がいます。
彼らのような存在がむしろ「いじめ」をつくっているのではと感じています。

そして、その距離にもお互いにとっての適切な距離というものがあり、
それを推し量る必要性をいっています。

(これはぼくの私見ですが、両親を見ていると長年連れ添ったとしても
互いのことを理解し合っているわけではないように見えます。夫婦といえども
他者なのです。ただ、たがいに程よい距離のようなものがわかっていて、
それだからこそ成立しているように見受けられます)

著者は次のステップへ進むために「ルール関係」「フィーリング共有関係」という
言葉を持ち込みます。

「ルール関係」
他者と共存していくときに、
お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係。

「フィーリング共有関係」
フィーリングを同じにし、同じようなノリで同じようにがんばる。
同じ価値観を共有する関係です。「みんな仲良く」です。

かつてはこの「フィーリング共有関係」がクラス運営の核でした。
しかし、もはや「フィーリング共有関係」がたやすく実現できる場ではなくなった。
にもかかわらず、それをいつまでもやろうとするのでうまくいかない。

「ルール関係」を前提に考えれば、仲が良かろうが悪かろうが、
とりあえずお互いが平和に共存できるのです。

何故ならば、
「ルールとはできるだけ多くの人に
できるだけ多くの自由を保障するために必要なものだからです」

「これさえ守ればあとは自由」
ルールは自由とワンセット。

逆を言えば自由はルールのないところでは成立しない。

もう少し「ルール」というもののことを話しをしましょう。
どこの社会でもあるルール。それは「盗むな殺すな」です。
それを守らなければ翻って自分がやられる。
このルールは自分の生命と財産を守る意味が含まれているのです。
これが守られているからこそ出歩く自由が保障される。
お互いのためにこういうことは止めておきましょうということです。

これが人付き合いにおいて大切なことは明白でしょう。
気に入らない相手でも攻撃せず、距離をおけば、自分が攻撃されることもない。
互いに窮屈な思いをすることなく自由でいられるのです。

ぼくのように人付き合いをせずに一人を好む行為が理解できないとしても、
距離をおいてくれればそれでことは済むのです。

ぼくが常日頃から思っている、
「マイノリティが理解できなくともかまわない。
その存在を許してくれればそれでいい。」
という考え方も根底は同じです。

補足として著者は「ルールのミニマム性」についても言及しています。
「ルールを守ろう」とすると今度はルール至上主義になり、規則規則で
がんじがらめにしてしまう傾向に陥りがちです。
そうではなく「ルールというのはどうやったら最小限にできるが重要」
なのだそうです。
これだけは外せないものを決め、それだけは守る。
ルールのミニマム性の追求です。
できるだけ融通や広がりを持たせた方がよいルール関係が構築できるそうです。

 

 

熱心さゆえの教育幻想

先生と生徒という関係に焦点が当てられています。

まずこう言い放ちます。

生徒の記憶に残るような先生になる必要はない。

学園ドラマの先生のようなことをしようとすると、
生徒の内面を無理矢理いじることになり、それは危険な行為。
文科省以下父兄も世間も、すべての教師に人格の高い高邁な資質を求めるが
それは間違いである。
(教師とて人です。過度な期待は禁物でしょうし。
教師自身も生徒に強い影響を与えたいなどという驕りは捨てるべきでしょう。
教師など、学校から学校へ移っただけの世間知らずです。
授業ができればいいのです。その授業が生徒に提供できる環境づくりをすべきです)

「話せばわかる」も幻想。
どんな生徒でも真剣にぶつかれば心を開いてくれるというのは、すごくラッキー。
満塁ホームランを狙うかのような発想だそうです。地道にヒットを重ねることの方が
教師には求められている。
だから、分かり合えないと思えば距離をとればいい。

基本的に、教師は子供の内面まではいじろうとする必要はない。生徒のすべてに触れなくていいし、触れてはいけない部分もある。

本当にやらなくてはいけないのは、生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入することよりも、自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できるようにすることです。

いじめを苦に自殺するような子が出る学校というのは、安全が保障されていない
戦争をしている危険地帯へ子供を毎日行かせていることと同じ。

積極的なかかわりをしなくとも、教師というのは生徒に影響を与えてしまうもの。
だからこそ、
自分が帯びてしまう影響力の大きさと自分の影響力の責任の限界を、同時に見据える意識が求められている。

担任になってもたかが一年か二年。一生関わることなどできないからです。

(著者の言い分は本当にすばらしい。キーワードは「過度」ですね。
「過度」な関わり。「過度」な期待。これを止めようといっているのです。
何故か教師も、世間や父兄もその「過度」を求めている。
それを、そんなものは幻想に過ぎないと言い切っているので痛快です。
必要なのは「最低限」です。
最低限の共存の場としてのルール性の維持・管理です。
「最低限」ができていないのに、「過度」をしようとしている。
基礎工事がおざなりなまま、建物を作るのと同じです。
そんな建物に行けません、住めません。崩壊しますから。)

この本を読んで、教育の現場が変わってくれればいいのですが。


ここまでで、第5章です。
本書は第8章までありますが、ぼくが言いたいことはここまでで十分だと判断しました。『友だち幻想』についてはこれで終了します。

(あくまでもぼくの主張のためであり、他の方にとっては6,7,8章が必要かもしれません。家族、恋愛、言葉について書かれています)

 

 まとめ

菅野仁著『友だち幻想』をまとめます。

友だち、恋人、親子、教師などの人間関係において、
自分のことが100パーセント理解してもらっていると考えるのは幻想である。
100パーセント伝わると考えるのも幻想である。

どなたも100パーセント理解し合っているという幻想に囚われてしまって、
むしろ苦しくなっていませんか。
そんなことやめてしまいましょう。

完全理解など不可能なのです。

それは、他者だから。

他者とは自分以外ののすべての人の事。

他者ゆえに自分と同じ存在ではない。
自分とは違う存在である。
その事実を受け入れよう。

同じではなく、違うのです。

みんないっしょ。同質性を重視しての人間関係の形成をやめるべき。

これからすべきことは共存性の重視です。
違うことを前提にした人間関係の形成です。

そのために必要なことは、最低限のルールづくりとその遵守です。

ルールはあくまでも「これだけは」というものだけにする。
これだけ守っていれば後は自由。

ルールとは縛りつけるものではなく、お互いの自由と安全を保障するためにある。

そのルールを乱していなければ、他人がどんな価値観であろうが、どんな人生を送っていようがその人の勝手。

理解できない相手、気の合わない相手とは距離を置く。
積極的にかかわらなければ傷つけあうこともない。

また、親しい間柄でも距離感には気をつける。
互いのいい距離を探す。

以上です。

このような考え方はぼくは学生のころから持っていました。
自分と同じ考えの方がいてとてもうれしく感じます。
菅野氏や、氏が研究していたドイツ語の社会学ゲオルク・ジンメルの著書も読んでみたいと思っています。
また、この著書に賛同した方が多いこともうれしく思いました。
(帯には、芸人の又吉直樹さん、大学教授斎藤孝さん、タレント壇蜜さん、女優南沢奈央さんなどがあげられています。30万人が読んだとも書かれています。みんな悩んでいるんですね)

ただぼくがしたまとめは、自分の考えと共通するところだけを抜き出して勝手に解釈した傾向もあると思います。是非ともご自身で手に取って読んでみて欲しい。
たった156ページなんです。厚さ1センチくらいなんです。
740円+税です。(2020年4月25日現在)
1000円でおつりがきます。
それでこれだけのことを教えてもらえるのですから安いものです。
気に入れば何回も折に触れて読む内容だと思います。

 

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

  • 作者:菅野 仁
  • 発売日: 2008/03/06
  • メディア: 新書
 

 

本書を読んで、自分なりに人づきあいについて考えてみてはと思います。
無益と感じている人間関係が整理できるきっかけになるかもしれません。
(めんどくさいと感じる人づきあいでも、情報が得られる、寂しさがまぎれる、などのことで利益を得ていると感じることができればいいのですが。つらいだけなら距離を置いてみてはと思います。あなたの幸せのために)
本書はあくまでも人間関係を良くするためのものとして書かれています。

で、ここからばぼくとしての大事な主張です。

本書に書かれている ような考え方ができれば、
自分たちとは違う考え方・性質の人たちを
「他者たち」のようにとらえることができるのではないでしょうか。
そうすれば、ぼくのようなソリタリーというマイノリティのことも理解できなくとも、許すことはできるのではないでしょうか。